相手の身になって

高校の生活指導を担当している先生にこんなお話を伺いました。

ある女子生徒が同じクラスの男子生徒に対して、執拗に「キモイ」「ウザイ」「死ね」といじめ続けた事で、男子生徒が不登校になりました。
いじめが発覚し、事実確認をするために女子生徒に話を聞きました。
女子生徒は「だってホントにキモくてウザいんだもん。ホントだからホントの事言っただけじゃん。」と悪びれる様子がありません。
先生が「君が逆の立場だったら、どんな気持ちになると思う?」と訊ねた所、「私はキモくないから解る訳ない。」と即答したそうです。

「相手の身になって考えたり、行動しよう」と聞くと
「自分はその相手になれる訳じゃないし、相手の事を考えたとしても、それは結局自分の感覚でしかないんだから、相手の身になんてなれない」と返ってくる場合があります。
この言葉をそのまま解釈すれば、確かにその通りです。
相手の考え全てが解る事などありませんし、「自分だったら…」と自分を中心に考えれば自分の感覚と言えるでしょう。

個人的意見ですが、「相手の身になって」と言うのは、こんなプロセスで成り立っていると考えています。
まず「自分が相手の立場だったら、どんな気持ちになるだろう」と想像します。
次に「自分が相手の立場だったら、どうしてもらえば自分は嬉しいか」と想像します。
ここまでが先の「自分の感覚」にあたるでしょう。
実際にはもうひとつ、もっとも重要なプロセスがあります。
どうしてもらえば自分は嬉しいか、の答えが出たら「それを自分がすると、この人は喜んでくれるだろうか」と想像する事です。

相手を良く知らなければ「この人は喜んでくれるか」とは想像できません。
相手を知るためには、相手の話を良く聞き、相手の態度を良く見る事が必要です。
例えば、大好きな異性がいる人は、その人の癖や、好きな食べ物や、好んで聞くアーティストなど「その人の情報」を良く知っているはずです。
これは、相手を好意的に思っていれば、誰でも自然とやっている相手の「観察」です。(個人差はあるでしょうが)
異性同性を問わず、相手に対して興味や関心を持つ事によって、相手の話を良く聞き、相手の態度を良く見て、相手を知ろう、理解しようとします。
そして、相手を知った上で「自分なら嬉しいけど、この人は喜んでくれるかな」と想像する時は、自分ではなく相手の気持ちを推し量ろうとしています。
これは、自分の感覚であって自分の感覚ではないと言えるでしょう。
また、別の角度から見ると、相手の身になるための究極奥義は、他人に興味や関心を持つ事かも知れません。

いろんな人の言葉や態度を注意深く観察し、自分だったらどうか、この人だったら喜んでくれるかと想像を巡らし、実際に行動に起こした結果、相手はどんな反応だったかをまた観察する。
これら一連の想像や思考や行動を何度も経験していくと、経験が蓄積されて段々と一般的な傾向が解って来ます。
例えば、暑い夏の昼間に汗だくになって訪ねて来た人に、冷たいおしぼりを差し出すと、気持ち良く汗を拭えますのでほとんどの人は嬉しいでしょう。
こんな感じで、こんな場面で、相手がこんな態度の時、自分がこのような行動をすると大概の人は喜んでくれる、と言う事が解ってきます。
それをたくさん知っていて、すぐに行動に起こせる人が「気が利く人」なのかも知れません。

冒頭の女子生徒のお話の続きです。
何を言っても相手の身になって考えられないと悟った先生は、彼女に人の痛みを解って欲しくて「荒療治」を行いました。
女子生徒の名前を入れて「○○子のブス!」「○○子のデブ!」「○○子なんか死んでしまえ!」等々、真剣に怒って女子生徒に向かって言い続けたのです。
すると、女子生徒はなんて酷い事を言うんだと泣き出しました。
折を見て先生が「辛かったかい?君はあの子にこれと同じ事をしていたんだよ。」と優しく言いました。
女子生徒は、その時はじめて相手に対して自分がどんな事をしてのかを知り、男子生徒に対して申し訳ないとさらに泣きじゃくりました。
そして、女子生徒が男子生徒に謝り、男子生徒も学校に来るようになりました。もちろんその後「いじめ」もなくなりました。

イマドキは、先生の「荒療治」の真意を理解せず、先生の暴言だけを取り上げて問題視する親もいるでしょう。(なので詳細は伏せました)
それこそ相手の身になれないのかも知れませんね。
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