自己犠牲

子供の頃、確か国語の教科書に宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」の一部が掲載されていました。
話の筋は主人公が身を粉にして地域の災害阻止のために様々な事柄を実現させ、最後は自らを犠牲にしたと言うものです。
ラストの自らを犠牲にした部分は、自分の命をかける前に、もっと他に方法があったのではないか等と子供心に考えたものです。

日本人は他の国の人たちに比べて、自己犠牲の精神を持つといわれてます。
戦争の時には「お国のため」「天皇陛下のため」と自らを犠牲にした人たちが大勢いました。
現代は命を懸けるような事はほとんどないでしょうが、ちょっとした自己犠牲は多くの人が日常的に行っているかも知れません。
例えば、相手の好物だからと苦手な食べ物も無理して一緒に食べたり、本当は行きたい所があるけど遠慮して相手に合わせたり、親の懐具合を考えて本当は凄く行きたかった大学を諦めたり、無給なのに会社のために休日出勤したり、親のために現在の会社の地位を捨てて実家に戻ったり…等々。
ちょっとした配慮のような事から、自分の夢を諦めたり人生を変えるような事柄まであるでしょう。

自己犠牲とは、その名の通り自分を犠牲にしています。
自分がああしたい・こうしたいと思う気持ち(欲求)を抑えて、誰かのために行動します。
しかし、自分の欲求自体はどんなに抑えてもなくなる訳ではありませんので、結局は相手のために自分は「我慢」や「無理」をしています。
最初は、相手のために「したい」「してあげたい」と、見返りを求めない無垢な気持ちから始めた事柄だったとしても、それによって自分自身の我慢や無理が少しずつ積み重なっていくと、だんだん自分自身がしんどくなってきます。
そして、心の中で「こんな辛い思いまでして何で相手のためにしてあげているのだろう」とか、「私は相手にこんなにしてあげているのに相手は私に何も返してくれない」とか、「こんなに苦しい思いまでして相手にしてあげているのに、何で相手は私の辛さを解ってくれないんだろう」と言う苛立ちや怒り、悲しみの感情が湧いて来ます。

苛立ちや怒りや悲しみの感情が強くなってくると、知らず知らずのうちにそれらが行動に出てくるだけでなく、相手に見返りを求めたり、辛くあたったり、「やってあげているのよ」とばかりに恩着せがましい行動をとる等、相手に気持ちをぶつけるようになっていきます。
苛立って「あなたのために○○してあげてるのに!!」と言われると、相手は「誰もやってくれって頼んでないのに…」とか「イライラされる位なら一切やって欲しくない」等と思うでしょう。
さらに、相手に気持ちをぶつけ続けていると、相手は不愉快さだけでなく窮屈さや不必要な罪悪感を抱く可能性があります。

少々極端ですが一例を挙げてみます。
子供の将来を考えたお母さんが、子供にレベルの高い家庭教師をつけましたが、高額なその費用を捻出するためには夫の収入だけでは足りずパートを掛け持ちしなければなりませんでした。
お母さんはお父さんと子供を送り出した後、急いでパートに向かい、夕方からは別の所で働き、閉店間際のスーパーに駆け込んで食材を求めて、慌てて晩御飯の用意をし、朝に出来なかった家事をこなし、お風呂に入ってホッとすると夜中の12時を過ぎています。
自分のくつろぐ時間などほとんどないまま、翌日の早起きのために就寝する、こんな毎日を繰り返していました。
お母さんと一緒の時間も少なくなり、一緒の時もいつも疲れてイラついたお母さんを見て、寂しく思った子供が「お母さん、もっと早く帰って来て」と言うと「あなたは勉強していればいいのよ!!」と怒鳴ります。
子供は家庭教師より大好きな優しいお母さんがそばにいて欲しいのに、いつも怒られて悲しくて寂しい思いをしています。
妻の体を心配した夫が「無理してないか」と尋ねると「あんたの稼ぎが少ないから私はパートに行っているの!」と強い口調で返します。
夫は自分の稼ぎの少なさや夫として家族を幸せに出来ていない罪悪感にさいなまれます。
ここに、家族みんなの幸せがあるでしょうか。

相手の幸せのために始めたとしても、自己犠牲は自分の幸せを追いやるだけでなく、相手の幸せをも追いやってしまいます。
人によって事情や状況は様々でしょうが、「誰かために○○してあげている」と言う気持ちが強くて、自分が幸せだと感じられない人は、自分の気持ちを押さえつけてまで相手に何かをするよりも、自分も楽しくて相手も喜んでくれる方法を考えてみると良いかも知れませんね。
[1]週刊ココロコラム
[2]TOPに戻る